【観の目シリーズ(2)】コミュニケーション

著者:田村新吾(株式会社ワンダーワークス代表取締役)

コミュニケーションの原点

 人間は社会的動物といわれ、単純に衣食住の生活だけではなく人間同士連絡を取り合う必要があります。人類は東アフリカのウガンダにあるビクトリア湖付近に発生したといわれ、ヒトとして進化し、やがて分離してヨーロッパに移動した一族がネアンデルタール人として発達したといわれています。スペインのラパシエガ洞窟には、ネアンデルタール人が描いた動物の壁画が、人類最古の壁画として遺されています。この壁画は、描き手の思いが鑑賞者に伝えるコミュニケーションの始まりであったと考えられます。ネアンデルタール人は約4万年前に絶滅し、その後、草原族で出産率の高い直立歩行のヒトが進化していきました。彼らには、よりコミュニケーションの必要性が増し、5千年前にはメソポタミアの楔形文字、中国の甲骨文字など世界最古の文字が現れたとされ、現代に遺されています。中国ではそのころ伏義による易経の太極観が著述され、社会現象の分析が行われているので、現代に近似した社会とコミュニケーションがすでに始まっていたと想像されます。その後、文字の形式、道具、伝達方法が進化を続け、15世紀にグーテンベルグが活版印刷を発明、これが今のマスメディアの始まりとなりました。日本では中国、百済経由で版木や製紙の技術が伝わり、770年頃にはすでに印刷物ができ、江戸時代は瓦版、浮世絵が流行しました。明治になって舶来文化が伝えられ、「Information」は森鴎外によって「情報」と訳され、「Communication」は、日本の朝廷に信(よしみ)を通じる朝鮮通信使から引用され「通信」と訳されました。朝鮮通信使とは、足利義満が高麗王朝に対し、国書を携えて派遣した日本国王使に対する返礼として派遣された使者です。現在は絶え間なくネットで交信する時代で、情報通信時代と呼ばれています。

心の関係として捉えるコミュニケーション

 筆者の上司であった中島平太郎が情報処理研究所の所長を拝命した時、筆者にこうつぶやきました。「田村君、変だと思わないかい。研究者の仕事を見ていると、だれも情を伝える技術を開発していないで、信号処理だけしてるんだ」と。まさに現実にはデータ処理研究所であり、通信もデータ電送であり、情も信も通じていないのが現実です。そこでCommunicationの原語を調べると「Communicatio」というラテン語で、意味は「共有する、分かち合う」ことであることがわかりました。Communityは、まさに一同集まって信用、信頼の心を分かち合う集団です。そこで新訳ですがCommunicationを「ひとつの心の関係」としてはどうでしょう。そうなると現代の問題であるネットによる虚偽の蔓延、炎上問題は否定されます。通信網は「以心伝心」網、コミュニティは「同じ釜の飯を食う場」という日本の先人たち言葉が「ひとつの心の関係」として当てはめることが出来ます。そういう解釈を共有すれば、首里城全焼と聴くと、同じ釜の日本人たちは一斉に立ち上がらなくてはならないでしょう。千曲川の反乱では閉じこめられた母が離れた娘にメールし、娘がツイートで助けを求めたおかげで救済された事が報じられました。長野県の消防署は、ツイート担当を置くことによって救済の依頼を容易に受け取ることができる仕組みを作り、結果50名が救済されました。母と娘そして救急隊員がインターネットで「ひとつの心の関係」になったのです。日韓中露の四文字熟語も政治を越えた、民間の心の共有関係をインターネットで構築することが令和の課題であると思います。ひとつの心になるにはふたつの要素があります。ひとつは差別しない心、もうひとつは惻隠の情といって心から相手を思う心です。損得や、私欲を抑えた広い心です。ちなみに最も優れた関係はアウフへーベン(止揚)という関係です。お互い大いに主張しあいますが、自己主張を貫くのではなく、相手の主張の良い所は取り入れ、自分の主張に修正が必要ならば素直に修正し、相互協力して最も優れた意見にまとめ上げる姿勢です。このような関係を成立させるには、お互いが心から信頼しあっていることが大事です。コミュニケーションは必ずしも言葉の交換だけによってではなく、無言でもひとつの心になることができます。子を抱きしめる母は語らずとも気持ちが伝わります。これを人肌通信と筆者は呼んでいます。昔、銀座にマキシム・ド・パリというレストランがありました。入り口から螺旋形の階段で下ると食卓があります。そのフロントは階段の途中の踊り場にあり、ロングドレスの女性が応対していました。支配人に尋ねると、酔客や招かざる客が来ると、慇懃無礼に対応し、帰らざるをえなくするのだと答えました。張り紙で酔客お断りと書くと無粋であるが、丁寧な対応で本人の恥じらいを引き出すのも高等なコミュニケーションです。また、人は居ませんが原宿の某ビルの公衆トイレはピカピカに輝いており、おそらく日本一きれいだと思います。そうなると汚すことは避けたく、きれいに用を足したくなります。これは注意の張り紙よりも、強く心に響きます。ひとつの心になることで、社会が明るく、健全になっていくと考えます。家族団欒の象徴である「ちゃぶ台を囲む夕飯」こそが真のコミュニケーションの姿なのです。

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