役職定年の崖を超えて

著者:Art M.

役職定年の崖を超えて

役職定年が近づいた頃

皆さんの勤めている多くの会社には役職定年という制度があるかと思います。ですが、その制度の存在を知っていたとしても、それが本当に至近距離に見えてくるまでは、自分事として意識していない方もが多いのではないでしょうか。私自身がそうでした。漠然と、周りの56歳の誕生月を迎えた諸先輩を見渡すと、退職金をもらい、関連会社のポストを得て、60歳まで勤務して、その後は、取引先にポストを得ている方ばかりでした。それが、いつの頃からか、関連会社に行ける人方はごくわずかとなり、多くの先輩方は、役職定年を迎えた56歳以降も、同じオフィスに居い続ける光景が増えてきました。それでも、多くの諸先輩がそれで生きているのだから、自分もそれで生きていけるものだとのだと完全に信じ切っていました。
しかしそれが幻想に過ぎないのだと気づくためにには、私は大変な出来事を経験しなくてはなりませんでした。54歳の時に、32年勤務した会社を襲った経営危機でした。(54歳の時、32年間勤務してきた会社を経営危機が襲ったのです。)あの時が、今日に至る転機の始まりでした。それまで信じていたもののすべてにが裏切られたと感じた時、人はどうなるのかということを知る機会にもなりました。
それが、その後2年間にわたる、真っ暗なトンネルの中を、よろめき、転び、倒れ、声にすることもできない心の絶叫を繰り返しながら、暗闇の中を進む闘いの始まりでしかなかったことを、当時は全く知る由もありませんでした。

2年間にわたった、暗闇の中の闘い

54歳の時、32年間勤務した会社を襲った経営危機は、何もかもを破壊し尽くしました。中性子爆弾のように、私だけではなく、多くの人々の心の中にあったものを破壊し尽くしました。
それまで、漠然とイメージしていた、新卒で入社した会社を勤め上げる人生モデル。56歳で役職定年をし、60歳を過ぎたらその時に適した処遇を皆と同じように施され、65歳の年金受給開始時期まで働く。そんな保証は消えてなくなりました。そもそも、会社そのものが消えてなくなるかもしれないのです。
それでも、私は32年間勤務した会社を信じていました。もう一度、この会社を立て直すために、自分は役職者としての最後期(最期?)を捧げようという思いでいました。しかし、組織というものは時に、個人のそんな思いなど、歯牙にもかけないのだということを思い知りました。その時の私は役職定年まで2年を切り、会社にとっては「扶養高齢者」でしかなかったのです。
3ヶ月経った頃でしょうか。寂しく、悲しくはありましたが、「扶養高齢者」として、自分から能動的に動くことを許されず運命に流される人生は自分の人生ではない、と思い立ちました。それが転職活動を決意した瞬間でした。その時は、そこから2年間に及び、暗闇の中で闘うことになるとは全く想像していませんでした。
54歳からの初めての転職活動は、試行錯誤の連続などという「きれいごと」ではありませんでした。それでも、大きな壁となる「年齢フィルター」を突破して、面接までたどり着いたのは7社。その後も多くの理不尽を経験した末に、7社目で奇跡が起こりました。それが、現在勤務している会社との出会いでした。

2年間にわたる闘いを経て得たもの、学んだもの

2年間にわたる、暗闇の中での闘いは、それはそれは辛く厳しいものでしたが、それを補って余りあるものをもたらしてくれました。
自分は何者か。自分は何をしてきたのか。自分は何ができるのか。それを活かして、これから起こることに対して、何をしていけるのか。これらのことを徹底的に見直す機会を与えてくれました。
そして、信じて、信じて、ひたすら信じて行動し続けていれば、思いがけない形で、人の縁はやってくるのだということを教えてくれました。
そのようにしてもたらされた人の縁によって、私に新たな活動の場が与えられました。2年間の転職活動を通じて、自分のやりたいことであり、自分が一番貢献できるのはここだと思える活動の場を与えられました。それは、製品・サービスを作り上げるバリューチェーンを構成する、異なる業界の企業同士の連携を高度化することで、デジタル時代の新しいビジネスを生み出すための支援をするという仕事です。

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